平昌パラリンピック金メダリストとして多くの人に感動を与えた成田緑夢選手。彼の名前を聞いて、その輝かしい活躍ぶりを思い浮かべる人は多いでしょう。しかし、その裏には壮絶な人生ドラマがあったことをご存知でしょうか。
今回は、成田緑夢の現在から、複雑な家族構成、そして障害を負うことになった経緯まで、詳しく解説していきます。
この記事の目次
成田緑夢選手のプロフィール
まずは基本的な情報から確認してみましょう。
成田緑夢(なりた ぐりむ)選手は、1994年2月1日生まれ。大阪府出身のマルチアスリートとして知られています。身長は172cmで体重62kg、スノーボードやフリースタイルスキー、トランポリン、陸上競技など、多彩なスポーツで才能を発揮してきた人物です。
彼の名前「緑夢(ぐりむ)」は、グリム童話から名付けられたという珍しいエピソードも。父親が経営するスノーボードショップの影響で、わずか1歳からスノーボードを始めたという経歴の持ち主でもあるんです。
複雑な兄弟構成について
成田家の兄弟構成は、一般的な家庭とは少し異なっています。
兄・成田童夢との関係
8歳年上の兄である成田童夢さんは、2006年のトリノオリンピックに出場した元プロスノーボード選手です。ワールドカップでの優勝経験もあり、スノーボード界では非常に有名な存在でした。
童夢さんは現在、タレント活動や会社経営を行っており、2015年には一般女性と結婚されています。緑夢選手との仲は良好で、月に1度は一緒に食事をするほど親密な関係を保っているそうです。
姉・今井メロとの複雑な関係
6歳年上の姉である今井メロ(旧姓:成田)さんも、同じくトリノオリンピックに出場した元スノーボード選手です。12歳で史上最年少プロスノーボーダーに認定されるなど、幼少期から注目を集めていました。
しかし、メロさんとの関係は少し複雑です。実は、童夢さんとメロさんが実家を飛び出して独立した際、緑夢選手は小学6年生でまだ幼かったため、その後は疎遠になってしまったのです。現在もほとんど交流がない状況が続いています。
異母兄弟という事実
実は、緑夢選手と童夢さん、メロさんは異母兄弟なんです。童夢さんたちの母親は今井多美江さんという女性で、1992年頃に父親と離婚しています。その後、父親が再婚した相手が元モデルの成田桂さんで、この方が緑夢選手の実母になります。
厳格な父親による英才教育
緑夢選手の生い立ちを語る上で欠かせないのが、父親の存在です。
スパルタ式の指導方法
父親の成田隆史さんは、現在「夢くらぶ」というトランポリン教室を経営していますが、子供たちへの指導は非常に厳格でした。小学校時代には、朝起きて布団でバック宙を10回してから朝食を取るのが日課だったそうです。
学校から帰ると、自宅屋上に設置されたトランポリンで父親考案の「鬼メニュー」をこなすのが当たり前。緑夢選手自身も後に「巨人の星の星一徹みたい」と振り返るほどの厳しさでした。
兄姉の反発と独立
あまりにも厳しい指導に耐えかねて、2005年に兄の童夢さんと姉のメロさんが家を飛び出すという事件が起こりました。当時小学6年生だった緑夢選手は、一人残されることになったのです。
この出来事により、一時的にスノーボード漬けの生活から解放された緑夢選手でしたが、逆に何をしていいか分からない状況に陥ってしまいました。
多彩な才能の開花
兄姉の独立後、緑夢選手は新たな競技に出会うことになります。
トランポリンとの出会い
母親の勧めで近所のトランポリン教室に通い始めた緑夢選手は、すぐにその魅力に取り憑かれました。中学2年生で全日本選手権43位、中学3年生では22位と、短期間で驚異的な成長を見せたのです。
この才能を見た父親が再びやる気を取り戻し、緑夢選手は再び厳しい指導の日々に戻ることになりました。しかし、今度は複数のスポーツを並行して行う「マルチアスリート」としての道を歩み始めたのです。
フリースタイルスキーでの快挙
高校時代には、トランポリンで全国大会最高難度点を受賞するなど、順調に実力を伸ばしていました。2012年にはフリースタイルスキーのハーフパイプを始め、わずか3ヶ月で日本代表に選ばれるという快挙を成し遂げます。
2014年のソチオリンピック出場も確実視されており、まさに順風満帆なアスリート人生を送っていたのです。
人生を変えた大事故
しかし、2013年4月、緑夢選手の人生を一変させる出来事が起こりました。
トランポリン練習中の事故
いつものように自宅でトランポリンの練習をしていた際、着地に失敗して左膝が反対側に折れ曲がってしまう大怪我を負ったのです。前十字・後十字靱帯断裂、半月板損傷、静脈破裂という重傷でした。
病院に駆けつけた父親は、医師から「足の切断の可能性もある」「再び歩ける可能性は20%程度」という絶望的な診断を告げられました。6ヶ月間の入院生活で4度の手術を受けましたが、腓骨神経麻痺により左膝から下の感覚を失ってしまったのです。
リハビリと挫折
退院後も30分歩くとアイシングが必要なほどの状態で、障害者等級6級と認定される軽度の障害が残りました。それでも父親は1ヶ月後にアメリカの雪山に連れて行き、無理やりスキーをさせようとしたのです。
この時、緑夢選手は人生で初めて父親に反発しました。「オリンピックを目指すスポーツはやめたい。楽しみたい」と訴え、ウェイクボードという競技を始めることになったのです。
パラアスリートとしての復活
転機となったのは、ウェイクボードの大会での出来事でした。
希望を与える存在として
一般の大会に出場して優勝した際、SNSで「勇気をもらった」という障害者の方からメッセージを受け取りました。このメッセージが、パラリンピックへの挑戦を決意するきっかけとなったのです。
2015年冬からパラスノーボードを始めた緑夢選手は、スノーボードクロスとバンクドスラロームという2種目に取り組みました。持ち前の運動能力と努力により、2016-2017シーズンには両種目でワールドカップ優勝を果たします。
平昌パラリンピックでの金メダル
そして迎えた2018年の平昌パラリンピック。緑夢選手はスノーボードクロスで銅メダル、バンクドスラロームで金メダルという素晴らしい結果を残しました。
この時、両親や兄の童夢さんも現地まで応援に駆けつけ、家族の絆を感じる場面もありました。一度は諦めかけた夢の舞台で頂点に立った瞬間は、多くの人々に感動を与えたのです。
成田緑夢の現在
成田緑夢は現在、競技活動と並行して大阪にある「superトランポリン」というスポーツジムで働いています。柔道整復師の資格も取得しており、スポーツに関わる様々な分野で活躍。
メディア出演時には、自身の経験を通じて「障害があっても夢を諦めなければ道は開ける」というメッセージを発信し続けています。
プライベートな一面
競技者としての顔以外にも、緑夢選手の人間的な魅力があります。
現在のところ、結婚や特定の恋人についての情報は公表されていません。SNSでもプライベートな恋愛関係については触れておらず、競技活動に集中している様子が伺えます。
その端正な容貌から「イケメンアスリート」として女性ファンも多く、将来のパートナーについても注目が集まっているのが現状です。
まとめ
成田緑夢選手の人生は、まさに波乱万丈という言葉がぴったりです。厳格な父親のもとで育ち、複雑な家族構成の中で多彩な才能を開花させながらも、大事故により一度は絶望の淵に立たされました。
しかし、その困難を乗り越えてパラリンピック金メダリストとなり、現在も新たな挑戦を続けている姿は、多くの人を惹きつけます。彼の「障害は可能性」という前向きなメッセージは、今後も多くの人々の心に響き続けることでしょう。
競技者としての実績だけでなく、人間としての成長も見せ続ける成田緑夢選手の今後の活躍に、これからも注目していきたいものです。