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村岡桃佳の生い立ちや経歴まとめ!スポーツを始めたきっかけは?

村岡桃佳の生い立ちや経歴まとめ!スポーツを始めたきっかけは?

パラリンピックで数々のメダルを手にし、多くの人に勇気を届けてきた村岡桃佳選手。そんな彼女の強さは、幼い頃に経験した病気や、家族との深い絆、そしてスポーツとの出会いから育まれてきました。今回は、その歩みをたどっていきます。

村岡桃佳選手のプロフィール

まずは、アルペンスキーと陸上競技の二刀流アスリートとして活動されている村岡桃佳選手の基本情報から見ていきましょう。

  • 名前: 村岡桃佳(むらおか ももか)
  • 生年月日: 1997年3月3日
  • 出身地: 埼玉県深谷市
  • 身長/体重: 150cm/37kg
  • 出身校: 正智深谷高等学校、早稲田大学スポーツ科学部
  • 所属: トヨタ自動車

4歳で人生が一変した出来事

村岡桃佳選手の人生は、4歳のときに大きく変わりました。

横断性脊髄炎という病気

4歳のとき、村岡桃佳選手は横断性脊髄炎という病気にかかってしまいます。この病気により、両足に麻痺が残り、車いすでの生活を余儀なくされることになったのです。

それまでは外で元気に走り回っていた活発な女の子でしたが、突然歩けなくなってしまったショックは計り知れないものでした。外に出ることもなくなり、家の中で塞ぎ込むような日々が続いたといいます。

両親の温かいサポート

当時、村岡桃佳選手は車いすでの生活に大きな戸惑いを感じていましたが、ご両親は「できることを広げてあげたい」との思いから、特別支援学校ではなく地域の小学校への進学を選びました。周囲との違いに悩むこともあったそうですが、その環境で得た経験が、彼女の芯の強さを育てていったのです。

スポーツとの出会いがもたらした希望

村岡桃佳選手の人生を大きく変えたのは、スポーツとの出会いでした。

父親の愛情深い提案

村岡桃佳選手がスポーツを始めるきっかけを作ったのは、お父さんの秀樹さんです。娘が車いす生活になったことを受け入れ、少しでも理解したいという想いから、秀樹さん自身も車いすを使ったスポーツを始めました。

車いすテニスや車いすバスケットボール、そりを使ったパラアイスホッケーなど、親子で一緒にさまざまなスポーツを楽しんだのです。特に車いすマラソンでは、親子で同時に表彰台に上がるほどの実力を身につけました。

小学2年生で陸上競技をスタート

お父さんの勧めで、村岡桃佳選手は小学2年生のときに陸上競技を始めました。もともと運動神経が抜群だった彼女は、みるみるうちに頭角を現していきます。この時期から、村岡桃佳選手の中に「パラリンピックでメダルを取りたい」という夢が芽生えていったのです。

中学時代からのアルペンスキー挑戦

村岡桃佳選手の競技人生において、大きな転機となったのが中学時代でした。

チェアスキーとの出会い

中学2年生になると、村岡桃佳選手はアルペンスキーに挑戦し始めます。最初は寒さに震えて泣き出しそうになることもありましたが、お父さんの秀樹さんが寒い日も一緒に練習に付き合ってくれました。

秀樹さん自身はチェアスキーの経験がなかったにも関わらず、娘のために必死に勉強し、独自の指導法を編み出していったのです。

パラリンピックという目標の発見

この頃、村岡桃佳選手はパラスポーツやパラリンピックの存在を知り、「こんな世界があるんだ」という大きな刺激を受けました。それまで漠然と抱いていた夢が、具体的な目標へと変わった瞬間でした。

17歳での日本代表デビュー

正智深谷高等学校に進学した村岡桃佳選手は、競技面で大きな成長を遂げます。

なんと17歳という若さで日本代表に初選出され、ソチパラリンピックに出場することになりました。初出場ながら大回転で5位入賞という素晴らしい成績を残したのです。この結果は、村岡桃佳選手にとって大きな自信となり、さらなる高みを目指すきっかけとなりました。

早稲田大学での新たな挑戦

高校卒業後、村岡桃佳選手は早稲田大学に進学します。

村岡桃佳選手は、パラアスリートとして初めて「トップアスリート入試」に合格し、早稲田大学スポーツ科学部に入学しました。入学当初、スキー部の寮は車いすでの生活に対応していませんでしたが、大学は村岡桃佳選手の入学を機に寮の改修を行い、バリアフリー化を実現しました。

平昌パラリンピックでの歴史的快挙

2018年の平昌パラリンピックは、村岡桃佳選手の競技人生において最も輝かしい舞台となりました。

村岡桃佳選手は日本選手団の旗手を務め、出場した5種目すべてで表彰台に上がるという驚異的な成績を残しました。金メダル1個を含む5個のメダルを獲得し、これは冬季パラリンピックにおける日本人選手最多記録となったのです。

陸上競技への挑戦と二刀流の道

村岡桃佳選手の挑戦は、アルペンスキーだけにとどまりませんでした。

2021年の東京パラリンピックでは、車いす女子100メートルに出場し、T54クラスで6位入賞を果たしました。これは幼い頃から抱いていた「陸上競技でパラリンピックに出場したい」という夢の実現でした。

陸上競技でのさらなる成長を目指し、村岡桃佳選手は2019年から岡山を拠点に活動することを決めました。過去3度のパラリンピック出場経験を持つ松永仁志氏のもとで指導を受け、実力を向上させています。

北京パラリンピックでの主将としての活躍

2022年の北京パラリンピックでは、村岡桃佳選手は日本選手団の主将として臨みました。

競技者としてだけでなく、チーム全体を引っ張るリーダーとしての重責を担いながら、金メダル3個、銀メダル1個という素晴らしい成績を残しました。この3冠達成は、彼女の競技人生における新たな頂点となりました。

家族の支え

村岡桃佳選手の活躍の背景には、家族の深いサポートがあります。

お父さんの秀樹さんは、現在52歳で自営業を営みながら、娘の競技活動を全面的にサポートしています。お母さんの操さんも、娘がスキーを始めたのをきっかけに自身もスキーを始めました。

村岡桃佳選手には、お兄さんの弥沙紀さん、お姉さん、妹の姫佳さんがいます。5人家族で、みんなが村岡桃佳選手の活動を見守り、応援しています。

現在の活動と今後への期待

大学卒業後、村岡桃佳選手はトヨタ自動車に入社しました。

村岡桃佳選手とトヨタ自動車の縁は中学時代から続いており、アルペンスキーと陸上競技の二刀流を認めてくれたことも、入社を決めた大きな理由の一つです。

2023年3月26日に開催された「オール陸上競技記録会」では、女子100メートルT54で16秒69という好タイムを記録し、優勝を飾りました。

まとめ

村岡桃佳選手の人生は、4歳という幼い頃に直面した困難からスタート。しかし、家族の愛情深いサポートと、スポーツとの出会いが彼女の人生を大きく変えていったのです。

お父さんの秀樹さんが娘を理解したいという想いから始めた車いすスポーツ。小学2年生で始めた陸上競技。中学2年生からのアルペンスキーへの挑戦。すべてが、現在の村岡桃佳選手を形作るものとなっています。

彼女の今後の活躍から、私たちはまだまだ多くのことを学び、感動を得ることでしょう。