1979年の三菱銀行人質事件は、日本の犯罪史上に大きな衝撃を与えた凶悪事件として記憶されています。犯人の梅川昭美は、15歳で強盗殺人を犯し、その後も波乱の人生を送った末に、この事件で命を落としました。さらに事件の背景には「魔性の女」と呼ばれる謎の女性の存在も。今回は、梅川昭美の生涯と、彼を取り巻く謎に迫ってみたいと思います。
この記事の目次
三菱銀行人質事件の概要
1979年1月26日、大阪・三菱銀行北畠支店(現・三菱UFJ銀行北畠支店)で発生した人質立てこもり事件は、日本の犯罪史上、特異な事案として記録されています。犯人の梅川昭美(30)は、黒いスーツ、サングラス、マスク、ポークパイハットという出で立ちで銀行に押し入り、5000万円を要求。当初は短時間での強奪を計画していましたが、逃げ出した客によって事件が発覚。警察に包囲されたことで、30人もの人質を取った3日間の籠城へと事態は発展していきました。
梅川昭美の立てこもり事件の結末
立てこもり中、梅川は威嚇射撃や女性行員への卑劣な要求、さらには「死んだふり」をしていた行員の遺体から耳を削ぐよう他の行員に命じるなど、常軌を逸した行動を続けました。最終的に特殊部隊の突入により梅川は射殺され人質は解放されましたが、警察官と人質あわせて4名の尊い命が失われました。人質事件での死者発生は日本初となり、犯人の異常な行動とともに、戦後最悪級の凶悪事件として歴史に刻まれることとなりました。
警察の突入と梅川昭美の最期
事件3日目の1月28日、警察は梅川の行動パターンを詳細に分析していました。味噌汁を飲む際の1.5秒の隙以外、飲食や排泄時も常に警戒を怠らない徹底ぶりに、ベテラン捜査員も舌を巻いたといいます。転機が訪れたのは午前8時30分頃。不眠不休の限界か、女子行員に新聞を読ませている最中にウトウトし始めた梅川。これを察知した男性行員が特殊部隊に合図を送りました。午前8時40分、壁役の女子行員がお茶を入れに立った瞬間を狙い、特殊部隊が突入。8発の銃弾が放たれ、そのうち3発が梅川の頭部と首に命中しました。その後、残りの人質25人全員が無事救出されましたが、梅川は同日17時43分、大阪警察病院で死亡が確認されました。
梅川昭美の生い立ち
1948年、広島県大竹市に生まれた梅川昭美。40代で子を授かった両親、特に母親は梅川を溺愛していたといいます。小学生時代は喧嘩っ早い面はあったものの、成績は平均的な児童でした。転機は10歳の時に訪れます。女性問題や金銭トラブルを抱えていた父親と母親が離婚。当初は父親と暮らすことになった梅川でしたが、わずか数ヶ月で母親のもとへ戻りました。母子家庭となってからも、母親は経済的な苦労を抱えながらも息子の要求に応え続けました。しかしこれが逆効果となり、梅川は自分の要求が通らないと母親に暴力を振るうようになっていったといいます。
梅川昭美の経歴
広島工業大学附属工業高等学校に進学後、1年生の2学期から不登校に。そして同年12月、わずか15歳で土建業者の妻(23歳)を殺害し、現金等を強奪する「大竹市強盗殺人事件」を起こします。少年院送致となった梅川は、「矯正困難。些細なことで犯罪に走る危険性が極めて高い」との鑑定を受けます。1965年の出所後は大阪へ移住し、バーテン等をしながら多額の借金を重ねていきました。後の三菱銀行人質事件で使用することになる猟銃は、1973年に大阪市内で入手したものだったことが判明しています。
「魔性の女」との関係は?
三菱銀行人質事件には「魔性の女」と呼ばれる女性が関与していたという説があります。この女性は、山口組組長を銃撃した鳴海清と、三菱銀行人質事件の犯人である梅川昭美の愛人でした。彼女は15歳の少女で、鳴海清が殺された後に梅川昭美と同棲するようになりました。2018年にTBSの「爆報THEフライデー」でこの女性が取り上げられ、大阪市西成区で生まれ、事件後は大阪でスナックを経営していると報じられました。しかし、放送内容にはヤラセ疑惑があり、真偽は不明です。
最後に
梅川昭美が起こした三菱銀行人質事件。その陰には、複雑な家庭環境や少年期からの犯罪歴、そして謎めいた女性の存在がありました。事件から40年以上が経過した今も、「魔性の女」の真相など、未解明の部分は残されたままです。