※当サイトは、海外在住者に向けて情報を発信しています。

鳥海連志がスラダン流川みたいと話題!経歴やい生い立ちまとめ

鳥海連志がスラダン流川みたいと話題!経歴やい生い立ちまとめ

東京パラリンピックの車いすバスケットボールで、ひときわ注目を浴びた選手がいます。それが鳥海連志選手です。その華麗なプレースタイルと端正な容姿から、まるでアニメ『スラムダンク』の流川楓のようだと話題になりました。実際に「リアル流川楓」という愛称まで付けられるほどの人気ぶりで、SNSでも多くのファンが彼のプレーに魅了されています。

今回は、そんな鳥海連志選手の魅力的な経歴や生い立ちについて、詳しくご紹介していきましょう。

鳥海連志選手の基本プロフィール

まずは鳥海連志選手の基本情報から見ていきましょう。

  • 名前: 鳥海連志(ちょうかい れんし)
  • 生年月日: 1999年2月2日
  • 出身地: 長崎県長崎市
  • ポジション: ガード
  • 背番号: 2
  • 所属: パラ神奈川SC、WOWOW

鳥海選手は生まれつき両手足に障がいがあり、3歳のときに両下肢を切断しています。右手の指は4本、左手の指は2本という状況でありながら、普段は義足を使って生活を送っています。そんな困難な状況でも、持ち前の運動神経の良さで様々なスポーツに挑戦してきました。

なぜ「リアル流川楓」と呼ばれるのか

多くの人が気になるのが、なぜ鳥海選手が流川楓に例えられるのかということでしょう。

プレースタイルの類似点

鳥海選手のプレーは、スピード感あふれる華麗なドライブが特徴的です。相手をかわしながらゴールに向かう姿は、まさに流川楓を彷彿とさせます。特に印象的なのは、パスを受け取った後にボールを一度地面にバウンドさせて相手を翻弄し、そのままシュートを決めるという超絶テクニックです。

このような1対1での圧倒的な個人技は、『スラムダンク』で流川楓が見せる「天才的なプレー」そのものだと言えるでしょう。

外見的な魅力

プレーだけでなく、鳥海選手の容姿も話題になっています。髪をなびかせながらコートを駆け抜ける姿、端正な顔立ち、そして長い腕といった身体的特徴が、多くの人に流川楓のイメージを重ねさせています。

実際にSNSでは「イケメン」「かっこいい」といった声が数多く寄せられており、その人気の高さがうかがえます。

車いすバスケとの出会いと成長の軌跡

鳥海選手がどのようにして車いすバスケと出会い、トップ選手へと成長していったのかを見ていきましょう。

中学時代から始まった挑戦

鳥海選手が車いすバスケを始めたのは、中学1年生のときでした。それまでは義足をつけてソフトテニスをしていましたが、学校関係者に誘われて2011年に佐世保WBCで車いすバスケットボールをスタートさせました。

驚くことに、わずか高校1年生の15歳で日本代表強化合宿に初招集されています。パラスポーツでは30代、40代のベテラン選手が多い中、十代での代表選出は極めて異例のことでした。

国際舞台での活躍

2013年にはアジアユースパラゲームスに出場し、2位獲得に大きく貢献しました。その後も着実に実力を伸ばし、2015年の三菱電機2015IWBFアジアオセアニアチャンピオンシップ千葉では存在感を発揮し、日本代表に定着するようになります。

そして2016年、長崎県立大崎高在学中にチーム最年少選手として、わずか17歳7カ月でリオパラリンピックに出場を果たしました。

家族に支えられた幼少期

鳥海選手の強さの源は、温かい家族の支えにあります。

バスケット一家での育ち

鳥海選手の家族は、両親と2歳上の兄妹の4人家族です。両親ともにバスケットボール経験者で、兄も大学まで続けたという、まさにバスケット一家で育ちました。興味深いのは、両親が決して何かを無理に勧めることはなく、「やりたいことをやっていいよ」という方針で子育てをしていたことです。鳥海選手は「全面的に子どもの意見を尊重してくれる家庭だった」と振り返っています。

運動神経の良さを発揮した幼少期

幼い頃から運動神経が抜群だった鳥海選手は、非常に活発な男の子でした。子ども園の運動会では、障害物競走で置かれていた2メートル以上の跳び箱によじ登って飛び降りるという、見ている大人をハラハラさせるような行動も取っていました。

特に印象的なのは、4歳頃から逆立ちをして家の階段を上り下りしていたというエピソードです。運動神経の良い兄とも逆立ちで競争するなど、遊びの中でも負けず嫌いな性格を発揮していました。

困難を乗り越えた青春時代

順風満帆に見える鳥海選手のキャリアにも、大きな挫折がありました。

リオパラリンピックでの挫折

2016年のリオパラリンピックでは、金メダルを目指して臨んだものの、結果は9位に終わりました。この結果に17歳の鳥海選手は大きなショックを受けます。

「自分が思うようなプレーがなかなか出来ず、世界のトップレベルの選手たちとの差を見せつけられた」と当時を振り返る鳥海選手。これだけ努力したのに結果が出ないという現実に、競技からの一時的な「引退」まで考えるように。

海外留学への憧れと葛藤

高校3年生の秋、鳥海選手は一度バスケットから身を引くことを真剣に考えました。子どもの頃からアメリカの文化や言葉に興味があった彼は、ニューヨーク州立大学の2年制大学であるハーキマーカレッジへの留学を検討します。

両親の前で大学の資料を取り寄せてプレゼンテーションまで行ったという鳥海選手。しかし、担任教諭や両親は「バスケットは続けたほうがいい」と説得し続けました。

運命を変えた一本の電話

進路に悩む鳥海選手のもとに、ある人から電話がかかってきました。この電話をきっかけに、彼は再び車いすバスケの世界に戻る決意を固めることになります。

東京パラリンピックでの大躍進

東京パラリンピックでの鳥海選手の活躍は、まさに圧巻でした。

史上初の銀メダル獲得

日本男子車いすバスケットボールチームは、史上初となる銀メダルを獲得しました。この快挙の立役者となったのが鳥海選手です。持ち点2.5と障害の程度が重いほうに入る「ローポインター」でありながら、攻守の要として多くの試合でチーム最長の出場時間をマークしました。

東京パラMVPに選出

鳥海選手の活躍は国際的にも高く評価され、国際車いすバスケットボール連盟から「東京パラMVP」に選出されました。優勝した米国選手を差し置いて得た称号は、彼の実力を物語っています。

大会を通じて1試合平均10.5得点、7.0アシスト、10.75リバウンドという素晴らしい成績を残し、チームの銀メダル獲得に大きく貢献しました。

最後に

東京パラリンピックで一気にスターダムに駆け上がった鳥海選手ですが、彼の挑戦はまだまだ続きます。パラリンピックが終わって帰省した際、家族から初めて「ホント凄かったね」と正式に褒められたという鳥海選手。バスケット一家で育った彼にとって、家族からの称賛は特別な意味を持っているでしょう。

4歳で2メートルの跳び箱を軽々と飛び越え、逆立ちで階段を上り下りしていた少年が、今や世界最高峰のアスリートになりました。その道のりは決して平坦ではありませんでしたが、家族の支えと持ち前の負けず嫌いな性格で、数々の困難を乗り越えてきました。「リアル流川楓」として多くの人を魅了し続ける鳥海連志選手。彼のこれからの活躍からも目が離せません。