『死刑囚の子』大山寛人さんの壮絶半生とは?事件概要や父との関係は?

『死刑囚の子』大山寛人さんの壮絶半生とは?事件概要や父との関係は?

大山寛人さんという人物をご存知でしょうか。「死刑囚の子」「人殺しの子」とレッテルを貼られ、世間の目と戦いながら生きてきました。大山寛人さんの親が犯した罪とは何だったのか、大山寛人さんがこれまで生きてきた壮絶な人生とは…。

大山寛人さんは「大山清隆死刑囚」の息子

大山寛人さんは、1998年と2000年に起きた「広島連続保険金殺人事件」で、2011年に死刑が確定している大山清隆死刑囚の息子です。そして、父である犯人に命を奪われているのは、最愛の母でした。大好きな父に、大好きな母を奪われる…そんな計り知れないほどの悔しさ、悲しみを経験した大山寛人さん。

一体、大山寛人さんの父親はどうしてそのような事件を起こしてしまったのでしょうか。

「広島連続保険金殺人事件」の概要

当時、生コン会社の役員を務めていた大山清隆死刑囚は、会社敷地内で養父の頭を殴り殺害。交通事故に見せかけ、保険金6000万円を受け取っていました。さらに2年後の2000年、自身の妻に睡眠導入剤入りの飲み物を飲ませて眠らせると、風呂場の浴槽に沈めて殺害。事故死に見せかけるため、海岸に遺体を遺棄したのです。

妻の遺体遺棄には息子も同行させる

驚くべきことに大山清隆死刑囚は、殺害した妻の遺体を海岸に遺棄する際、当時12歳だった息子を夜釣りに誘い同行させていました。のちに息子は、「助手席に母が横たわっていたが、寝ていると思った」と語っています。夜釣りの最中、水に何か落ちる音がしたと思うと、助手席から母の姿が消えており、血の気が引いたといいます。

2年間、母は溺死したと信じ込む

大好きな母が亡くなった原因について、酔って寝ていたために海に落ちてしまったという父親の話を、2年もの間信じていたという大山寛人さん。まさかその後、父親が殺人罪で逮捕されるなど、夢にも思わなかったそうです。

2011年に死刑が確定

大山清隆死刑囚の死刑は、一審で死刑判決が下った2005年から6年後の2011年に確定しています。

大山寛人さんの壮絶人生

母の死を悲しみ、父の罪を憎む日々

最愛の母を失った悲しみと、母の命を奪った父に対する憎しみを一度に味わうことになった大山寛人さん。事件直後は精神が安定するはずもなく、ずっと泣きわめく毎日を過ごしていたそうです。父のことは、この手で殺してやりたいと思うほど憎んだといいます。

母のもとへ行こうとしたことも

人殺しの子どもだといわれ、今まで通りの生活ができなくなった大山寛人さんは、公園で寝泊まりをするようになります。盗みを繰り返しながらなんとか生き延びていたそうですが、あの夜の母親の姿が目に浮かぶと、「助けてあげられなくてごめんね」という思いに駆られ、自身も母の元へ行こうと、大量の薬を喉に流し込んだこともあったそう。しかし、吐き気をもよおすだけで、死ぬことはできませんでした。

父の愛を感じたこともあった

それからは非行に走ったり、自殺未遂を繰り返した大山寛人さんでしたが、ある日無免許運転で警察に追われ、事故で大けがをしたときのこと。ボロボロの姿で父親のいる広島拘置所を訪れると、父は「頼むから無茶はせんでくれ」と泣きながら言ってきたそう。そのとき大山寛人さんは、初めて「自分は愛されていた」ことに気付いたといいます。

何故だろう…父を許してしまっている自分

大山寛人さんは、大好きだった母親を父親に奪われています。母親は殺される直前、風呂場から大山寛人さんの名前を呼んでいたそう。でも、眠っていた大山寛人さんは気づくことができませんでした。そして、父に殺されてしまった母。「助けてあげられなくてごめんね」そう思いながら、今まで生きてきたといいますが、「なぜだか父親のことはもう許してしまっている」とも語っています。自分を愛してくれている父親に対し、家族として「償ってほしい」と思いながら、自らの人生をも楽しむべく、努力しているそうですよ。

まとめ

大好きな両親を、同時に失ってしまった大山寛人さん。幸せだった家族がバラバラになってからは非行に走りながら、悲しみや憎しみから逃げるように生きてきたそう。しかし、あるとき父親から愛されていたことに気が付き、それからは家族と向き合う決意ができたのです。現在は恋人もでき、幸せに暮らしているという大山寛人さん。今後、彼に平穏な人生が訪れることを祈ります。